It is no use crying over spilt milk.

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シュレーディンガーのにゃんこ。

勉強の合間、シュレーディンガーの猫について考えてみたり。と言ってもわたしは物理学メインな人間じゃないので正確な事は言えないし、ただ本を見て知ったりネットで調べただけなので、数式を書いて説明できるわけじゃないですがwただ、存在とか平行世界考えるとなんか楽しくなってきたので!w
シュレーディンガーの猫の内容自体はリンクなりWikipediaなり見てもらうとして(何)、今はコペンハーゲン解釈と、エヴァレットの多世界解釈のなどがあるらしいです。この思考実験の問題は、猫の生死はいつ決定されるか?(つまり猫の生死に関する波動関数の収束はいつ起こるか)です。コペンハーゲン解釈は、猫の生死は実際に意識あるモノが観測するまで決定されておらず、それまでは確率的な重ね合わせの状態にあるとしています。そうすると、意識とは何か、という別の(しかし非常に重要な)問題も浮上します。多世界解釈は、観測者も猫の生きている姿を見る確率と死んでいる姿を見る確率の重ね合わせ状態にあるとし、波動関数の収束は起こらず、ただ今此処に可能性の一つとして存在している、と考えます(観測者はそのうちの一つを見ている)。だから、ある種の平行世界に近い考え方をしてるのかもしれません。コペンハーゲン解釈は、観測者を中心においてますが、多世界解釈の方は世界を中心において、そのなかに観測者がいると考えているように思えます。
コペンハーゲン解釈の問題点は、意識あるモノ…つまりここでは意識を持つものとしての脳とは何か?ですね。また、これまでの自然科学は自然現象を客観的に考えることで発展して来たにもかかわらず、ここに来て観測者の意識という極めて主観的なものが出てきたことも非常に興味深いところです。この解釈は逆を言えば、観測者がいなければその事象は存在しない。世界は観測者がいるから存在する、ということになります。ある意味これは正しいことですが、近代科学の基盤となる思想は神(観測者)が宇宙を創造したのではなく、客観的な実用性を基盤としているので、このあたりと矛盾します。この思想と矛盾するのでは、近代科学ではないのでないか、という危険性も持ちます。
逆に、エヴェレットの多世界解釈も、問題点があります。まず、他の可能性の証明がまったくできません。つまり、観測者は猫の生死が決定した世界にすでにいるわけなので、ほかの可能性の実在が証明できないません。また、何故一つの可能性上にしか存在できないのか、何故様々な可能性にまたがる意識が存在しないのか?という疑問も出てきます。しかし、この解釈の非常に面白い点は、今現在いる宇宙のほかに、別の分岐をたどった別の宇宙の存在を認めてしまう点にあります。SFなどで見られるパラレルワールドが存在するのではないか、と言うことに…。
どちらの解釈も、どちらが正しいと実験的に証明することは不可能ですが、考える上で、どちらかの解釈を選択することは可能です。わたしの中では、どちらかというとコペンハーゲン解釈寄りかもしれません。それは、実際に経験した(観測した)事象でなければ、その事象は存在しないという点にあります。例えば今ブログを書いてる時に、森林伐採が行われているかもしれません。しかし、その事は"わたし"が知覚している世界には行われていない事であり、不確定です。そのことはニュース等を用いて伝聞されることで、確定されます。このことは多世界解釈でもいえることですが…その可能性(森林伐採が行われている・行われていないという二つの可能性)を作り出している(創造している、ともいえる)のは、わたしたちの意識であり、やはり、意識というものを中心において考えるのが妥当と言える…と思うのですが。なんか途中から観念論の話に摩り替わってるような気もしますが…w


参考リンク
シュレーディンガーの猫
コペンハーゲン解釈
エヴェレットの多世界解釈